
通貨バスケット 複数の主要貿易相手国の通貨を一定の割合で加重平均したものと自国通貨を連動させる方式のことです。 外国為替証拠金取引の浸透や庶民の成長による地方都市の発達、遠隔地の商品流通や年貢輸送のために街道が整備され、地方文化の交流も活発になる。陸上交通では馬借、車借などの陸上輸送業者、海上交通では廻船を用いて輸送や委託販売を行う中継業者の問丸が活躍する。港や街道の要所には幕府や寺社、地方領主らにより関所が設置され、関銭や津料を徴収していた。京都七関など。 室町時代には倭寇(わこう)と呼ばれる無国籍海上勢力が活動し、14世紀の倭寇は前期倭寇、15世紀の倭寇は後期倭寇と呼ばれる。倭寇は朝鮮半島や中国沿岸部、東南アジアにわたる東アジア地域で活動し、海賊行為や密貿易などを行った。さらに世界史的には大航海時代を迎えており、ポルトガルやイスパニアなどのヨーロッパ人も東アジアで活動を広めていた。 外国為替で倭寇と区別 博多、堺、坊津(鹿児島県南さつま市坊津町)から出航し、寧波で勘合符を照査させる。 足利義持が一時停止するが、足利義教が再開。細川氏と大内氏が実権を巡り衝突(寧波の乱)して、以後大内氏が貿易の実権を握った。 1492年に中山王尚氏が三山を統一して琉球王国を建国すると、明朝の冊封を受けた。国家の経済を貿易に頼る琉球王国は明のほか、朝鮮、マラッカ王国やパタニ王国、安南やアユタヤー王朝などの東南アジアにも及ぶ広範囲で独自の中継貿易を行っていた。1414年には将軍足利義持が琉球王の献上物に対する返礼の書状を贈っており、1441年には足利義教が琉球を薩摩国の島津氏の属国とする事を認めており、さらに幕府には琉球奉行が設置されて貿易の統制を行おうとしており、室町時代には琉球が「日本」として認識されていた。 鎌倉時代末期には蝦夷の反乱が鎌倉幕府を揺るがし、幕府滅亡後には安東氏が十三湊を本拠地に栄えるが、やがて南部氏の興隆により没落する。蝦夷地(北海道)においては和人(本土人)の居住勢力が広まり、土着のアイヌ民族との衝突が起こる。1457年にアイヌの酋長であるコシャマイン率いる部族が蜂起して、蠣崎氏や武田信広らと戦う。 日経225は、義満の時代と義政の時代に特徴的な文化が栄え、北山文化・東山文化と呼ばれることがある。南北朝時代の活力が背景にあり、3代将軍義満の時代(北山文化)は中央集権的で公家文化と武家文化の影響や中国文化の影響があるのに対し、8代将軍義政の時代(東山文化)は庶民的で「侘び・寂び」という禅宗などの影響が強いのが特色といわれる。応仁の乱での京都の荒廃を機に地方伝播し、惣村や都市の発達により成長していた庶民にも文化が浸透していった。茶の湯・能楽・書院造など今日、文化の原型と考えられているものがこの時代に確立された。 建築では、義満が北山に建造した鹿苑寺金閣は寝殿造と禅宗仏殿を融合させたもので、北山文化を代表する建築である。義政の建てた慈照寺銀閣は禅宗仏殿に書院造を合わせた建築。また慈照寺内の東求堂同仁斎は四畳半の座敷で、初期書院造といわれ、和風建築の原型になっている。 FXと下句を連ねていく和歌である連歌は鎌倉時代から発達し、室町時代に最盛を迎える。宗祇や二条良基、宗長や心敬らの連歌師が出現し、大名や公家僧侶が寺社に集まり連歌会が催された。連歌は貴族から一般民衆の間にまで広まった。茶の湯は、南北朝時代に行われていた闘茶や茶寄合が、東山時代に村田珠光により侘び茶が開始され、戦国時代に千利休が完成させる。 絵画では東山時代に画僧である明兆・如拙・周文らを経て雪舟が水墨画を完成させる。狩野元信は水墨画と大和絵の技法を融合させ、のちに狩野派と呼ばれる。彫刻ではそれまでの仏教彫刻に加えて、能面彫刻が作られるようになる。 足利義満の保護を受けた観阿弥・世阿弥元清の親子が鎌倉時代から行われていた猿楽・田楽を能楽として大成させる。世阿弥は「風姿花伝」で芸道論を著す。対話劇である狂言も成立。 室町時代は惣村の成立や都市の発達により庶民が文化の担い手になってくる時代でもあった。庶民の間では短編の読み物集である御伽草子が読まれ、狂言や小唄、幸若舞などの庶民芸能が流行する。食文化では、味噌、醤油、豆腐など日本料理の基本要素が出揃った。醤油を除き、中国から伝わっていた要素で、室町時代の商工業発達によって普及した(醤油の普及はやや遅れ、関西では江戸時代初期、江戸では中期)。 室町時代の学問の担い手は主に禅僧や公家である。京都の五山を中心に禅僧の間で漢文学や朱子学の研究が行われ、五山文学と呼ばれる。五山は幕府の保護を受け、日明貿易を行う足利義満の外交的顧問役でもあった。無力化した公家は有職故実や和歌、古典の研究を行い、一条兼良や東常縁、三条西実隆などの公家より古典文化が守られた。応仁の乱で京都が荒廃すると、公家や禅僧は地方に移り、学問や文化の地方波及や庶民化が進む。関白一条兼良は越前国朝倉氏のもとへ身を寄せ、子は土佐国中村に土着して土佐一条氏となる。桂庵玄樹は肥後国及び薩摩国に招かれ、現地で朱子学の一派である薩南学派を開くが江戸時代には衰亡した。大内義隆に仕えていた南村梅軒は土佐に招かれて、同じく朱子学の一派の海南学派を開く。 また、この頃関東では、上杉憲実により足利学校が再興される。大内氏や堺、奈良の商人の間でも独自の出版が行われた。 禅宗は武家層にも広く広まり、武家の保護を受けた禅の五山が定められるなど仏教を通じて武家文化と貴族文化が融合するなど、室町文化に影響する。都市部では日蓮宗が広まり、京都では日親が布教活動を行い、町衆は信徒的な団結力で土一揆に対して戦う。1536年には日蓮宗は比叡山延暦寺と衝突して天文法華の乱と呼ばれる騒動となる。庶民の間では曹洞宗が広まる。 浄土真宗の蓮如が再興した本願寺教団は、講と呼ばれる信徒集団を形成し、応仁の乱の後には守護大名に取って代わった戦国大名に匹敵する勢力になり、一向宗とも呼ばれるようになり、信仰の下に団結して守護大名の勢力と対抗する。加賀国一揆や山城国一揆等の一向一揆は守護大名を打倒し、織田信長などは徹底的に弾圧し、大坂の本願寺が落とされて以降は沈静する。信長は日蓮宗の僧と浄土宗の僧と論争をさせる(安土宗論)。 神道では、吉田兼倶が吉田神道を創始する。 1549年にはヨーロッパからキリスト教がフランシスコ・ザビエルなどによってもたらされている。 「増鏡」は四鏡の最後の史書で、後鳥羽天皇の即位から1333年に配流となっていた後醍醐天皇が京都に帰還するまでの宮廷社会の動向を記している。「太平記」は後醍醐天皇の即位から細川頼之が管領に就任するまでの南北朝時代を扱っており、軍記物語の性格が強く室町時代から江戸時代にかけて太平記よみと呼ばれる物語僧によって庶民にも語られていた。「梅松論」は足利尊氏の正当性を強調して書かれた史書であるが、成立は太平記よりも早く、資料性は高い。「神皇正統記」は、南北朝時代に南朝の北畠親房が関東で勢力を集めるために南朝の正統性を神代から記した所で、のちの皇国史観に繋がるイデオロギー的性格の強い史書であった。「難太平記」は今川貞世が著した史書で、太平記の誤りを訂正しつつ、今川氏の事績を中心に書かれている。「明徳記」は1391年の明徳の乱の経過が書かれている、「応永記」には1399年の応永の乱や南北朝合体の記述が、「永享記」には永享の乱を中心とした関東の情勢が、「応仁記」には足利義政の治世から応仁の乱の様子が記されている。また、江戸幕府が幕末に編纂した史書として「後鑑」があり、1333年から1597年に至るまでの史実を編年体で記し、各項目に出典となった各種資料を直截採録する形式となっている。


