
チャート 価格の動きをグラフ化したものを言います。 外為が南北朝合一を達成し幕府権力を絶大にしたものの、義満急死後は大名合議制に戻り相対的に将軍の権力も低下した。更に民衆による土一揆の発生や後南朝による南朝再興運動など、幕府にとってはかつてない事態に遭遇するようになった。そのような中で諸大名にとっても領国統治の必要上、将軍のこれ以上の権威の低下は避けたいとの思惑もあった。比叡山座主であった足利義教がくじ引きで将軍になると、土岐氏・赤松氏・大内氏らの有力守護大名の後継争いに積極的に干渉し将軍権力の強化に努めた。更に幕府に反抗的だった鎌倉公方足利持氏を永享の乱で、その残党を結城合戦で討伐すると全国に足利将軍に表向きに刃向かう勢力は無くなり、一見社会は安定に向かうかに見えた。だが、余りにも強硬な政治姿勢が人々に「恐怖政治」との反発を抱かせ、やがて赤松満祐により義教が暗殺された(嘉吉の乱)をきっかけに将軍の力は衰えた。 その後は幼少の将軍が続いたため有力大名による合議で国が運営された。8代将軍・足利義政は芸術や建築に関しては優れた才覚の持ち主であったものの、政治的関心には乏しく、自然と政治は将軍の正室・日野富子や将軍側近、有力大名らによる権力抗争の場と化し、関東で鎌倉公方の復活を巡って生じた享徳の乱が発生しても、十分な対策を打とうとはしなかった。 日経225は子供に恵まれなかったために弟の義視を養子として後継者にする予定であったが、富子に息子・義尚が生まれると、後継者を巡って義視支持派と義尚支持派が対立した。前者は管領・細川勝元を後者は有力大名の山名持豊(宗全)を中心に擁して対立を深めた。更に管領を輩出する畠山氏・斯波氏でも家督相続を巡る争いが発生して将軍後継者争いと連動を始めたことから問題は複雑化していった。 やがて、両者の対立は全国の大名の兵力(享徳の乱の最中の関東を除く)を政治の中心地である京都に結集して遂に大規模な軍事衝突を引き起こした。これが応仁の乱である。だが、大規模な軍事衝突にも関わらず、参加諸大名の士気は低く、かと言って勝利の際の利益配分を期待しなかったわけではないため、結果的に首都で延々と11年間も決着が付かない軍事衝突を断続的に行う事になった。そのため、義政がこれ以上の政治参加に倦んで義尚に突然将軍を譲って引退しても、また両軍の総大将である細川勝元・山名宗全が相次いで病死しても諸大名は兵を撤退させることは無かった。兵を撤退させる事になったのは、余りの長い戦争に耐え切れなくなった領国で不穏な動きが相次いだからである。 FX、応仁の乱は首都・京都を焦土としただけで何ら勝敗を決することなく終結したのである。だが、この乱をきっかけにした戦闘は応仁の乱終結後も地方へと拡大し、関東の享徳の乱も更に10年近く戦いが継続された。 この争いによって幕府の政治的・経済的基盤は崩壊して将軍の権威は名目のみと化した。だが、新将軍・義尚は若くして病死し、引退した父・義政も銀閣をはじめとする東山山荘の造営に余生を費やして、芸術の世界にのみ生きた(とはいえ、義政の芸術保護が後の東山文化発展の基礎となり、後々の日本文化に大きな影響を与えた事は否定できない)。 また、皮肉にもこれまで将軍の権威をないがしろにしてきた諸大名も将軍の権威が本当に失われてしまった事でそこに由来していた守護としての統治権そのものの権威までが失われてしまい、配下であった守護代や国人衆による下克上、更には加賀一向一揆や山城国一揆に代表される民衆の一揆からもその領国支配を脅かされるようになっていくのである。 投資信託で将軍の権威は完全に失墜し幕府の権力は衰退したが、将軍の軍事的な実権はある程度保たれていた。乱のあと、将軍の権威に変わる形で管領細川政元が絶大的な権力者として台頭するようになった。義尚の死後、将軍の座は義視の子・足利義材が継承していたが、義材と対立した政元は、義材と結ぶ元管領畠山政長を討つと、明応の政変を引き起こして義材を追放して足利義澄を新将軍に擁立した。戦国時代の始まりは長らく応仁の乱がきっかけとされてきたが、今日では明応の政変をきっかけにして戦国時代が始まったとする説が有力になっている。 家臣である管領が将軍を廃したこの事件によって政元は細川京兆家による管領職の世襲化と独占状態を確立し、さらに将軍の廃立権をも手中に収めたのだが、その天下も長くは続かなかった。自らの後継者を巡る家中の内紛で殺害されたのである。以後、政元の養子である細川澄元と細川高国が後継管領を巡って争いを始めた。これを知った前将軍義稙(義材改め)は、大内義興とともに上洛、細川高国の出迎えを受けて将軍位に復した。だが、大内義興が本国情勢によって帰国すると、高国は亡命先で没した義澄の遺児足利義晴を新将軍に擁立して義稙と澄元連合軍を破った。 先物取引に澄元の子・細川晴元が高国を倒し、義晴を新将軍と認めその管領になる事で20年以上にわたる内紛に終止符を打った。結局、一連の内紛で幕府そのものが衰微し京都周辺を収めるだけの地方政府へと転落し、辛うじて守護に代わって全国に割拠した戦国大名への権威付け機関としての存在感を示すだけのものと化した。 だが、晴元が政権獲得の最終段階で功臣・三好元長を殺害した事が後年大きく裏目に出る。元長の子である三好長慶兄弟が晴元に対して挙兵、晴元を追放して将軍足利義輝を傀儡化した。長慶は晴元の後任に傀儡の管領を立ててその職権を奪い、相伴衆の一員として幕政の全権を掌握した。だが、その晩年には重臣の松永久秀に実権を奪われて病没した。 この状況を見た将軍・義輝は上杉謙信(関東管領)をはじめとする親将軍家の戦国大名の支援を受けながら、将軍権威の再建に努めるが、その矢先松永一派のクーデター(永禄の変)によって暗殺された。その弟・足利義昭は管領斯波氏の元家臣織田信長の支援を受けて上洛して松永らを降伏させて将軍に就任する。だが、やがて「天下布武」を唱えて新秩序形成を目指す信長と旧来の将軍・幕府中心の秩序の再建を目指す義昭は敵対し、1573年に義昭は信長によって京都を追放されて幕府組織は信長の築いた政治機構に解体・吸収された。 その後も義昭は征夷大将軍職を解任されていない事を正統理由とし、各地の大名を動員し、信長征討活動を行うが、信長による新秩序形成の勢いの前には全くの無力であり、義昭の京都追放の時点をもって室町幕府および室町時代の終期と看做されている。→地方情勢については戦国時代 (日本)を参照 鎌倉時代から農業生産力が向上する。西日本から関東地方に波及した二毛作の技術や牛馬耕、水車などを利用した灌漑施設の整備や肥料の発達などは生産力を向上させ、さらに農業技術の進歩で集約的・多角的な農業を行い、自立農民の成長を促して郷村制の成立をもたらす。手工業原料となる胡麻や桑、楮なども栽培される。また、それまでは輸入に頼るのみであった木綿の栽培も16世紀頃から三河地方において栽培されはじめる。 農民の自立が進むと、それまで宮廷に属していた工人も解放されて自立し、手工業が一般的に行われ市場が成立する。日用品や農具、織物や紙など。今日各地方の特産物と呼ばれるものは室町時代が起源であるものも多く、京都の西陣では明から輸入した生糸を利用して高級織物である西陣織がつくられた。 農業生産力の向上や手工業の独立は市場を成立させ、都市や交通の要地とされる場所では市場が発達した。鎌倉時代の三斎市から月に6回定期的に開かれる六斎市など定期市や、都市部での見世棚をもった常設の店舗に、特定商品のみの卸売市場、卸売業を営む問屋も発生する。行商人は連雀商人と呼ばれた。平安時代あたりから公家や寺社を本所として販売の独占権や関税の免除などの特権を得る座と呼ばれる閉鎖的な商業独占体制は、成長する戦国大名によって自営営業を許す楽市楽座によって廃止の方向へ向かう。 標準貨幣は永楽通宝であったが、室町幕府は貨幣を鋳造せずに日明貿易で明銭を輸入して流通させていた。流通貨幣は不足しており私鋳銭など悪貨が流通しており、幕府は度々撰銭令で悪銭を指定し、流通貨幣との交換比率も定めていた。 市場の成立や交通の整備は都市の発展を促す。また、室町時代には伊勢詣や西国33ヵ所など寺社参りが流行し、応仁の乱の戦火などは各種都市の発達をもたらした。また、守護大名は城下町を整備。堺(大阪府堺市)や博多(福岡県福岡市)などでは会合衆を中心に自治的な都市運営を行っており、応仁の乱以後は武装して防衛をしており自治的性格をもっていた。中世の代表的自治都市である堺は宣教師も「東洋のベニス」と評価する文書を残しており、織田信長に屈服するまで自治を行う。同じく自治的性格を持っていのは、一向宗の寺院を中心に形成された寺内町である。代表的寺内町には摂津国石山(大阪府)や越前国吉崎(福井県)、富田林(大阪府富田林市)などがある。同じく信長による一向一揆平定で解体する。


